壁を越えた生徒達6

彼は壁を越えられなかった生徒です。

2年生の秋に入塾しました。
北陽志望でしたが、
定期テストの5教科合計点が約60点です。

それでも私は無理とは言いません。
実際に合格するための勉強をあと1年積み重ねられるからです。

2学期の期末テストで約100点、
3学期の期末テストで約180点になりました。

学力点だけ見ると商業の合格ラインに達したので本人に伝えました。
もともと釧路市内の高校には合格できないと担任から言われていたので安心したのかもしれません。
春休みは全部遊ぶ時間に使いました。
これでは北陽の合格ラインにはたどり着きません。

現実をきちんと見て欲しいので、
明輝までは約束できるが、
北陽は厳しくなったと話しました。

これを春休みに勉強を全くしなかったことが原因だとは彼は思っていません。

塾で間に合わないのだから家庭教師にすると辞めて行きました。
彼が合格したのは商業高校です。

彼が越えられなかった壁は
「正しく会話が出来なかった」事です。

私達も案外身近なところで損をしているかもしれません。

壁を越えた生徒達5

今日の生徒は小学4年生です。

出来ることは面白がって続けますが、
出来ない事は難しいと言ってしたがりません。

塾の勉強ですから、
学校で出来なかったことを中心に教えます。
だから彼にとっては苦痛の時間だったでしょう。

5年生になる春休みに春期講習を7日間受けました。
その時に評判のパズルをさせたところ、
面白がってどんどん解いていきました。

その後算数のワークを解かせると、
じっくり考えるようになりました。

終わるとフラフラ教室を歩くのはまだ治っていませんが、
それも時間の問題かなと思っています。

彼が越えた壁は、
「あきらめない事」です。

人が成長しようと思ったとき、
最も大切にしなければならない事です。

小学生にとって「あきらめない事」も、
教えてもらわなければ身に付かない事なのですね。

壁を越えた生徒達4

彼は2年の夏休み前に入塾しました。
学校の成績はいいとは言えません。

夏休みは部活動の練習や試合で忙しく、
大好きな釣りも楽しい季節なので、
とにかく遊びました。

塾で課した勉強は全くしませんでした。
「宿題でいっぱいだった。」
と、いうのが本人の理由です。

このセリフ、よく聞きますよね。

学校の成績が良くないなら、
学校からの宿題にプラスした勉強をしなければ追いつく訳がありません。
当たり前の事ですが本人もご両親も気がついていないことがほとんどです。

中学校以降の勉強は、
最低限覚えなければならない用語を覚えていなければ、
先生から教わる事も出来ません。
教えたくても伝わらないのです。

N(ニュートン)の単位を覚えていてもらわなければ、
圧力を教えられません。

彼は2学期に勉強するペースを作ろうとしました。
冬休みは少しですがプラスαの勉強が出来ました。

3学期には用語を覚えることもでき、
2学期中間と比べると、
理科、社会共に20点伸ばしました。

彼が越えた壁は
「自分の限界を自分で決めるのを止めた。」
事です。

出来ない生徒は出来ない自分の姿を普通だと思い込んでいます。
出来るようになっても出来ない自分を演じる事もあります。
これを超える事は案外大変な事なのです。

壁を越えた生徒達3

彼は2年生の夏に入塾しました。
通常は週1、冬休み春休みは通い放題で勉強しています。

3学期の期末テストの結果を見て、
今のままなら北陽高校への進学は難しいから、
春休みどう過ごしたらいいか考えなさいと話しました。

部活動の練習の都合もついたので、
春休みは英語の特訓をびっしりしました。

もう一度be動詞の使い方から始まり、
時制を整理し、
受動態、比較級、不定詞を復習出来ました。

4月の学力テストでは35点です。
2年生の定期と学テでは50点前後でしたから、
約10点アップしたのと同じです。

彼が越えた壁は、
意思を強くした事です。

塾でも家庭教師でもそうですが、
効果がなかったらすぐ変えようとする保護者が少なからずいます。

学力が伸びない原因は、

生徒自身の意識と、一緒に戦おうとする両親の意識の足りなさが、ほとんどです。

生徒が変わろうと頑張ってもうまくいかない時は、まず保護者が変わっていきましょう。

壁を越えた生徒達2

この生徒は中3の冬休み前に入塾しました。
最後の追い込みのために月曜から金曜まで17時半から21時半まで休まず勉強しました。

冬休みにびっしり勉強したおかげで、
2学期末のテストと3学期末のテストで5教科合計150点も伸びました。

この生徒の越えた壁は、
学校以外でも勉強をするという事でした。

さすがに1回のテストでは内申点を上げることが出来ませんでしたので、
本当に希望する高校へはいけませんでしたが、
あと半年早く始めていれば結果は違っていたかもしれません。

壁を越えた生徒達1

最初のエピソードです。

彼は2年生の秋に入塾しました。
ポテンシャルはあるように見えましたが工業を志望していました。

後日お父様と話をしたところ、
「卒業するまでに頑張るという事を学んで欲しい。」
と、望んでいました。

ガリ勉したとは言えませんが、
3年の4月には明輝は落ちない範囲に入ってきました。
話し合って北陽を目指して最後に追いつかなかったら明輝にすることにしました。

夏、秋の摸試と学テで国語が高得点を望めることも判ったので、
北陽への手応えは十分にありました。

担任からは受からないから変更しろと言われたそうですが、
そのまま北陽を受験し合格。
奇跡だと言われたそうです。
冬休み以降順調に勉強を積み重ねることが出来たので、
私から見ると当然の結果です。

10月までは部活動一色で、
受験生らしい生活ではありませんでした。
冬休みも塾を休む日があり、
勤勉とは言えませんでした。

彼の越えた壁は、
目標に向かって前進することでした。
決して後退したりブレたりはしませんでした。

北陽に合格するために必要十分な努力をしました。

お父様もずっと見守っていて下さいました。

1年半かけて、親の期待通りに成長しました。

壁を越えた生徒達 オリエンテーション

今の成績を何とかしたい思いから塾に通うようになります。

塾に通えば成績が上がると思っている生徒もいますが、
自分自身が何か変わらなければ成績は上がりません。

これは親にも言える事です。

変わる内容はそれぞれ違いますが、
本人にとってそれは大きなハードルの時があります。

生徒が変わらなければまずは親が変わりましょう。

私から見ても良く頑張ったと思う程大きな壁を越えた生徒や、
大抵は気がつかない内に越える壁にまだたどり着いていない生徒もいます。

そのような具体例を次回からシリーズでお話ししていきます。

未来プランナーとは3つの条件を満たしている事

学習塾と言うと中学、高校、大学進学の為に知識を詰め込む仕事と言うのが一般的なイメージです。

しかし人生は入試を合格したから安心出来る訳ではありません。

固い言い方をすると、

「社会人として労働し、収入に見合った税金を納められる大人になる事」

ですが、もう少しくだけた言い方をするなら、

「山あり谷ある人生で逃げることなく賢い選択が出来る人」

になって欲しいと、私だけではなく全ての大人が子供に対して思っている事です。

だから月見学道は学習塾とはうたいませんでした。

 

では私の肩書「未来プランナー」とは何でしょうか。

1、様々な職種の内容を良く知っている事。

私の様に営業職を経験していると官民問わず、あらゆる職業の方達とお話し出来ます。学校の先生では経験出来ない事も生徒に対してアドバイスが出来ます。

例えば湖陵に進学した生徒にとって薬剤師は誰もが手に届く人気が高い安定した職業です。学校の進路指導でも病院や薬局で働くくらいの説明はします。それは生徒でも知っています。でも実は一番仕事に充実感を感じる職場は製薬メーカーの営業所に務める管理薬剤師です。そのメーカーで新薬を販売する事になったら各営業所の薬剤師が真っ先にセミナーを受けます。その知識を営業所のMRに伝達講習をします。営業担当地域の医者からの問い合わせは全てその薬剤師が担当します。病院では医者の下で働きますが、これではまるで医者のための先生の様です。

 

2、その職種につくための覚悟と道順を熟知している事。

私の様に様々な職種の方とお話しする機会があると、その方の歩んできた人生を伺うことも出来ます。本人の覚悟の質によって道筋は無数にあります。それを生徒一人ひとりに合ったアドバイスが出来ます。

例えば孫正義や三木谷浩史、イチローや本田圭佑や錦織圭の様になるための道筋は1つではありません。

 

3、夢を馬鹿にしない事。

私の様に劣等生や挫折を経験していると失敗こそ最大の勉強だと身に染みています。生徒達が語る夢を馬鹿にせず、同じ立場で応援し、次の一歩をどう進めたらいいかアドバイスが出来ます。

例えば今の生徒達はアニメ界の仕事に憧れています。大人達はそれがどれだけ狭い門で、厳しい安定していない職業かをよく知っています。良識ある大人はその夢に進む事を良しとしません。しかし誰もその道を選ばなければ手塚治虫も宮崎駿も庵野秀明も存在せず、その素晴らしい作品の恩恵を享受することも出来ません。

 

この3つを大切にして適切な進路をアドバイスする仕事が未来プランナーです。

月見和史自己紹介11(大学時代)

東京農業大学生物生産学科に入学して、
一次産業全般を学びました。

今ではどの教科書でも取り上げている環境問題という言葉は私が高校生の時に使われ始めました。
時はバブル、超インフレ好景気時代だったため、
誰もそのような事に見向きもしませんでした。

そのような世の中で、少しでも環境改善に役に立ちたいと思い水処理の勉強がしたいと思っていました。
しかし物理がものにならず一旦は諦めました。

進学先が農業系だったので雑草を勉強して環境改善の役に立ちたいと始めは植物資源の研究室に通っていましたが、
水産系の研究室で、水槽の水の循環ろ過の研究が出来ると知り、
3年次から水産系の研究室で勉強しました。

この時勉強したことは、後に商社勤務時代に役に立ち、
循環ろ過水槽の設計、施工、据え付けの仕事をすることが出来ました。

専門で勉強した事を仕事で生かせる機会などそうそうありません。

とても幸せな事でした。

大学時代はテューバを吹いていません。
一度聴衆に戻ってみようと思い、
アルバイトで貯めたお金は全部演奏会を聴く費用にし、
全国を飛び回っていました。

この時に海外まで視野に入れていればもっと面白い経験が出来たかもしれませんでした。

この回で学生生活までの内容が終了です。
社会人になってから釧路で塾を開くまでのエピソードについては別シリーズでお話しします。

月見和史自己紹介10(高校卒業~浪人)

前述したとおり、
高校3年間は全く勉強をしなかったので、
卒業するころには成績が回れ右をして3位まで上り詰めていた事に気が付いていませんでした。

こんな高校生が合格する大学はありません。

父からは最後まで諦めるなと、専門学校の受験も勧められ受験しました。
そのうちの一つに合格しましたが、
「今のお前で合格できる程度の学校なんて、
そんなところに行っても意味がない。」
と、言われ、勧めていながら行くなとは意味が解らなかったので家出しました。
4月の冷たい雨の中、傘も差さずに飛び出し、
興津の海岸で雨に打たれながらこれからの事を考えました。
父の言っていることが少し判りだしたので、
夜に釧路駅に移動し最後は夜中に家に帰りました。

翌朝母に泣かれました。
話を聞くと夜に駅に探しに行ったそうで、
その途中の拓銀ビル(現北陽ビル)前で止まっている救急車を見つけ、
私だと思い確認しにまで行ったそうです。

確かにその救急車を私も見ました。
私はその反対車線の歩道を歩いて駅に向かっていました。

心配をかけて悪いことをしたと心の底から思いました。
一生反省し続けます。

父とも話をしました。
「どこにも行くところがないから浪人するというのは、
進路選択したとは言えない。」と、言われ、また悩み考えました。

家を出てアルバイトをしながら何年かかけて大学に進学しようと決めた時、
釧路を離れ札幌の予備校で浪人することを許してもらえました。

札幌では勤勉でしたが、夏から秋にかけて予備校をサボる事も覚えてしまいました。

そうこうしていると春には大学生になりました。

 

この時の一連の経験が、ただの塾講師ではなく

「未来プランナー」という肩書で名乗るきっかけになりました。

※浪人時代のエピソードは濃いので別なトピックでまたお話しします。