人の成長

「bとdの区別がつきません。」

ちょっと知識があれば発達障がいを持っていると気が付きますが世間一般では判らないのが普通です。SNSで発信してみたところそれが良く解りました。

この生徒のIQは80。中1なのでまだ4年生に満たない成長度合いです。身長も150㎝なく、声変わりもしていません。成長遅延なのは明らかです。

この生徒、「勉強します」→「できませんでした」→「明日までに覚えます」→「できませんでした」をエンドレスで繰り返します。

幼児期に誰でもある事なので、それ自体は何も問題ありません。

じっくり待つだけです。

待つと同時に「この行動は信用を失う事だ」と、教えたところ、信用を失うわけにいかないと、出来ないことを隠すようになりました。

これは無邪気だった子供がずるいことを覚えたのと同じなので、この生徒の場合でも「成長した」と、喜んで良いところです。

もう少し正確に分析すると、無邪気さを残した行動です。信用して欲しいから隠している訳ですから。きっと悪気はなく真剣な行動のはずです。

このままでは良くないのでエンドレスをどこかで切るために条件を加えました。

私 「今度覚えてこれなかったらもう教えてもらえないぞ」

生徒「はい」

「はい」の返事はダメです。後で自分が困るので言ってはいけない返事です。

この生徒、どんなに苦しくてもあきらめた事がないので、この程度ではめげずに明日また教室にやってきます。

でも今日までの時点でまだ来ません。

行動から分析すると、成長したお陰で物事の判断基準が一つ増え、その責任感から「もう教えてもらえない」を守っているようにも見えます。

あるいは単純に私への反抗かもしれません。

「信用を失うわけにいかないからできない事を隠す」

「『もう教えてもらえない』を守るために教室に来ない」

と言う2つの行動の質は一緒に見えます。

障がいがなければこのような受け取り方、考え方はしないでしょう。年齢が幼児なら何も変ではありません。これが中学生だから次の指導に支障が出ます。

幼児ならグズっても無理やり送り届けてもらえたら次の指導が出来ますが中学生はそうはなりません。自分の力でどこかに逃げます。

今回の事例は塾経営というビジネス面ではマイナスです。

でも人が成長する過程で必ず通過する場面なので「やっとたどりついてくれた。」とも言えます。

どこかの様に見せかけのテストの点数上昇は私の主義に反します。

生徒が成長した結果、教室を辞めて行くなら、それは「良し」としています。

私の教室を辞めたら、この生徒は養護学校以外で成長を促してくれる刺激には出会えません。

また必要になった時に悪びれなく帰ってきてくれることを切に願っています。

中学受験する小学生

中学受験は釧路に住んでいれば事実上必要ないので、私も仕事の守備範囲から除外していました。

平成30年6月に一通の問い合わせがあり、私の状況も大きく変化しました。

その問い合わせは

「小6と小3の息子に午前中に4日間の授業をしてもらいたい。」

と、言うものでした。

この日本人の少年達はお父様の仕事の都合でインドに住んでいて、向こうの夏休みの間だけ父方の祖母の家から日本の小学校に通うのだそうです。

前年も釧路に来たそうなのですが、いきなり日本の学校に通うと困ったことも起こったそうで、今年は事前に準備してから通いたいと言う事でした。

私の所へ連絡する前に既に何件もの釧路の塾に問い合わせをして、全て断られたそうです。

その後色々あり、これがきっかけで私も本格的な中学受験指導を経験することになっていきます。

小6の生徒は東京の中学校を受験する事になったのですが、困ったことが起きました。

私には中学受験用の算数を教える力がありません。

そこで知り合ったばかりの東京上野桜木に教室を構えている桜学舎を頼りました。

https://www.ueno-sakuragi.com/

ここの教室は進路指導に定評があり、超難関校へ進学したい生徒は大手入塾を勧めて、その他ごまんとある私立中学校の中から生徒の為の最善の一校を選ぶ協力をしてくれます。

興味を持った方は亀山塾長の著書

「ゆる中学受験」

も、ご覧下さい。

今は便利な世の中になったもので、東京の受験最前線でサポートを行っている塾の授業を釧路で受けられるのです。

志望校の偏差値が高かったのと、準備期間が半年だったので、一歩及ばず不合格でしたが、翌年鎌倉学園中学校の帰国子女枠の編入試験を受けて合格しました。

令和元年10月にまた別の問い合わせがありました。

立命館慶祥中学校SPを受験するために四谷大塚のテキストを使って勉強しているが、テストの点数が伸びなくなったので指導して欲しいと言う事でした。

この生徒のお母様も何件もの釧路の塾に問い合わせをして断られ続け、やっと私の所に辿り着いたそうです。

立命館慶祥中も東京の中学校と遜色ない出題をするので、算数は桜学舎、一番困っている国語は私が教えました。

結果は併願した札幌日本大学中学校SAと共に合格しました。

二人の共通点は

1.元々釧路の生徒ではない。
2.入試に対して困っている。
3.他塾で断られた。
(理由は様々だと思いますが規定外 、想定外の生徒だったのだと思われます。)
4.入試までの日数が短すぎる。

私は代え難い貴重な経験が出来きたので、断った塾の皆さんにはお礼が言いたいくらいです。

今はこの二人の少年が有意義な中学校生活を送れる事を心から祈っています。

心のけじめ

2017年7月18日

生前大変お世話になった方の葬儀に参列しました。

知っている方でしたら、「一緒に楽器吹いていたんだね。」と、言って下さります。

でも私が「その方」と知り合ったのは仕事での場面が先で、音楽はその後です。

だから私にとってはお客様であり、仕事を教えてくれた人でもあります。

 

20年以上前、私は社会人なり立てで、会社で営業職をしていました。

理化学と言う業界で、実験で使う機器や器具、試薬を販売していました。

阿寒町を担当していた私はマリモを研究している学芸員の方の所によく訪問していました。

その学芸員から、「観光課で仕事があるから事務所に行って来るといいよ。」と、勧められました。

マリモの研究自体は教育委員会の予算ですが、マリモは阿寒町の観光資源なので、特に阿寒湖畔では大切にされています。

「その方」とは当時の阿寒町役場の阿寒湖畔支所で出会いました。

一人前とはとても言えない私の仕事ぶりでしたので、役場での仕事の仕方と、阿寒湖でのマリモの大切さをたくさん教えてくれました。

 

仕事の内容は、阿寒湖の島にあるマリモ展示観察センターの水槽をレイアウトする水草のバックヤード(飼育水槽)を作るという事でした。

学生時代に閉鎖型水槽の水ろ過(水を継ぎ足さず、排水もせず循環させて使い続ける)の研究をしていたので、私にとっては勉強したこと全てを注ぎ込める仕事でした。

学芸員と「その方」とを行ったり来たりして打ち合わせしながら、私が設計し、何とか受注し、無事に工事も終わりました。

普段は200円のビーカー、300円の塩酸を売る仕事でしたが、この仕事の売り上げは700万円。会社でも表彰されました。

管理を担当していた職員の方が退職したのを機に、使われなくなってしまったのが残念でしたが、入社2年目で、自分の専門知識を生かし、自分が思った通りの仕事が出来た幸運は「その方」のおかげだと今でも思っています。

 

当時私は中学時代の恩師が指揮を振る吹奏楽団でテューバを吹いていました。

そのコンサートが終わった後の打ち上げの席に「その方」がいらっしゃったのです。

「その方」はサックスを吹いていました。

吹奏楽に詳しい方ならお判りだと思いますが、合奏で座る位置はサックスが前でテューバが後ろです。

お互いの顔はほとんど確認出来ません。

加えて「その方」は昔は団員だったそうですが、その頃はサポートメンバーになっていて、当日のリハーサルくらいからしか合流しません。

打ち上げの席で挨拶しに行くと、

「あれ、なんで居るの?今一緒に吹いていたのかい?そう、教え子だったのかい。なんだもっと早く言ってくれたら良かったのに。」

私だって知っていればもっと早くに話していました。

 

バックヤードが完成した後の話です。

 

その後、この展示観察センターに気象観測装置を付けたり、阿寒国際ツルセンターが出来る時に関わったり、出来た後もお世話になったり、私が阿寒を担当している間、ずっとお世話になっていました。

 

私が会社を退職した後も、よくお会いしていましたが、体調を崩したと聞いてからは容体を心配するくらいしか出来ませんでした。

 

私の現在の仕事上、お通夜に参列する事は難しので、顔見知りと故人をしのぶことは出来ませんでした。

 

両親が健在な私は、生きる事に対して少し緩い所もあります。

「その方」には今の私の姿を見てもらう事はついに出来ませんでしたが、恥ずかしくない仕事をしていこうと、心にけじめをつけて帰って来ました。

社会人の時のテューバ生活 その3

「釧路テューバドットコム」と、言うサークルを作りました。

ユーフォニアムも含めないテューバだけの集団です。

活動は不定期ですが、過去4回の自主コンサートを開催しました。

細く長く続けていきたいと考えています。

過去を振り返るのはこれでおしまいです。

ここから先は話題が出来た都度アップしていきます。

つづく

社会人になってからのテューバ生活 その2

吹奏楽での活動は別シリーズでお話ししますので、ここではテューバの話だけにします。

その1でお話ししたテューバキャンプに触発され、ソロ、アンサンブルがとにかく楽しくなりました。

吹きたい曲を見つけてはチャレンジし、吹けなくなると練習の仕方を元札響の香川先生などに教えていただきながら、少しずつレパートリーも増えていきました。

2000年11月、30歳の時に仲間を集めてソロのリサイタルを行いました。

私のテューバ20周年です。

当時は良かれと思ってプログラムしましたが、技量に見合わない曲ばかり演奏し、今振り返ると恥ずかしい限りです。

2010年40歳、30周年記念は・・・・・・

何もしませんでした。

つづく

 

社会人になってからのテューバ生活 その1

大学時代に1枚のCDと出会いました。

元エンパイアブラスクインテットのサミュエル・ピラフィアンがジャズのCDを出しました。

そのCDにはテューバとギターのデュオが入っていたんです。

そんな編成での演奏を聴いたことが無く、その素晴らしさに驚きました。

北海道テューバ・ユーフォニアム協会のテューバキャンプに、ピラフィアンが講師として来て下さったので、初めて参加しました。

これなら一人でも続けられるし、その時々の仲間と楽しく出来ると感じ、社会人2年目で楽器を買いました。

買った楽器もこのCDのジャケットで写っているマイネルウェストンの2145。

ミーハーです。

つづく

大学生の時のテューバ生活 

大学生の時にはテューバを吹いていませんでした。

高校生までで燃え尽きた感があり吹き手ではなく、聴き手になりました。

アルバイトで貯めたお金と、自由な時間を利用して、生の演奏を遠くは西宮まで聴きに行きました。

故鈴木竹男先生(阪急百貨店吹奏楽団指揮者、阪急少年音楽隊隊長)には大変お世話になりました。

高校生の時のテューバ生活

釧路湖陵高校へ進学。器楽部に入部。

この頃はもう別な楽器に変わりたいと思っていなかったので、まっすぐにテューバ志望。

他に2人希望者がいましたがそれぞれバスクラリネットとパーカッションになりました。

 

2年生時には初めてソロコンクールにも出場。

その時の楽しさが忘れられず今もソロ演奏を続けています。

 

吹奏楽の話題となると、もっとあるのですが、テューバと限定すると、案外ないものです。今更ながら発見です。

中学生の時のテューバ生活(パート決め編)

釧路市立東中学校に入学。

ちょうど現在の幣舞中学校の校舎の工事が始まった時です。

吹奏楽部に入学。当時の顧問は大場和典先生。

程なくパート決めの日がやって来ました。

1年生は全員教室に集められ、1年間の活動内容を聞いた後希望パートを聞かれました。

トロンボーンかサックスを吹きたくて、サックスに手を上げたところでいったん休憩。

先生が寄ってきました。

先生 「今年は2,3年生で47人いるんだよ。」

私  「?」

先生 「コンクールは50人しか出られないから、1年生は3人しか出せないんだ。」

私  「?」

先生 「サックスで手を上げていたでしょ。サックスはオーバーしていて、1年生は出られないんだよね。」

私  「!」

先生 「どう?テューバ吹いてみないかい。何か吹ける楽器あるの?」

私  「2年間テューバ吹いていました。」

先生 「じゃあいいじゃない。テューバは3年生一人だから必ず出られるから。」

私  「ハイ!!テューバ吹きます。」

 

これでテューバの道が確定しました。

 

小学生の時のテューバ生活

私がテューバを吹き始めたのは小学4年生も終わる頃でした。

日進小学校の金管バンドに4年の3学期から入部し、全員コルネット(トランペットと同じ音域の楽器)を練習していました。

1か月後にパート分けがあり、当時ヤマハの講師だった元北翔大学教授菅原克弘先生に、テューバを吹いてみないかと勧められ始める事になりました。

当時は最も大きい金管楽器だという事が一番の魅力でした。

6年生の時には釧路ジュニアブラスバンドに参加。

これが私の初吹奏楽です。

当時北海道教育大学釧路分校の講師だった竹内俊一先生(現兵庫教育大教授)に吹奏楽を教わりました。

今思うと北海道ではかなり恵まれた環境で吹奏楽を経験出来ました。