分からない事が平気になってしまう事です。
授業で分からない ⇒家で勉強しようとする ⇒誰からも教えてもらえないので分からない ⇒
塾に行きたがる ⇒分からない事が平気なので塾でも適当 ⇒家で勉強しようとする ⇑
どうですか。
何も改善されていません。
月見学道でメインで使っている教材が「すらら」です。
ネット配信されているプログラムで、小中高の英国数が対象です。
各教科に先生の役割をするキャラクターがいて、学校の授業の様に内容を教えてくれます。
画面には黒板に書かれるような大事なポイントが出てくるのでノートも綺麗に取れます。
説明を聞きそびれたら、画面のレバーを戻せばもう一度同じことが聞けます。
画面も自分で操作して次のページに進みます。
つまり「早くて付いていけない」が有り得ません。
長所を上げればきりがありませんのでオフィシャルHPをご覧になってみて下さい。
このすらら指定の「すららコーチ」として北海道地区を担当しています。
すららの機能を利用して、「通わなくても勉強できる塾」が月見学道です。
日本全国どころか、世界中からのお問い合せをお待ちしております。
どの教科でも最低限必要な知識が身に付いていなければ応用が利きません。
国語なら読み書きが出来ない漢字が増えると本文を読みたくなくなります。
算数なら四則計算と小数、分数の理解が低いと計算問題も解けません。
数学なら正負の数と文字式の決まり事を覚えなくては数学の入り口に立ったとは言えません。
理科なら自然現象を説明するための用語や単位を使えるようになって初めて世界が見えてきます。
地理なら産業構造、歴史なら時間の流れ、公民なら今の日本の政治を意識する事で事柄を覚えやすくなります。
英語なら音読。読めない単語は意味も覚えられないし書くことも出来ません。黙読は全く無意味です。
今回は各教科の具体例も書きましたので少し長くなりました。
吹奏楽での活動は別シリーズでお話ししますので、ここではテューバの話だけにします。
その1でお話ししたテューバキャンプに触発され、ソロ、アンサンブルがとにかく楽しくなりました。
吹きたい曲を見つけてはチャレンジし、吹けなくなると練習の仕方を元札響の香川先生などに教えていただきながら、少しずつレパートリーも増えていきました。
2000年11月、30歳の時に仲間を集めてソロのリサイタルを行いました。
私のテューバ20周年です。
当時は良かれと思ってプログラムしましたが、技量に見合わない曲ばかり演奏し、今振り返ると恥ずかしい限りです。
2010年40歳、30周年記念は・・・・・・
何もしませんでした。
つづく
釧路市立東中学校に入学。
ちょうど現在の幣舞中学校の校舎の工事が始まった時です。
吹奏楽部に入学。当時の顧問は大場和典先生。
程なくパート決めの日がやって来ました。
1年生は全員教室に集められ、1年間の活動内容を聞いた後希望パートを聞かれました。
トロンボーンかサックスを吹きたくて、サックスに手を上げたところでいったん休憩。
先生が寄ってきました。
先生 「今年は2,3年生で47人いるんだよ。」
私 「?」
先生 「コンクールは50人しか出られないから、1年生は3人しか出せないんだ。」
私 「?」
先生 「サックスで手を上げていたでしょ。サックスはオーバーしていて、1年生は出られないんだよね。」
私 「!」
先生 「どう?テューバ吹いてみないかい。何か吹ける楽器あるの?」
私 「2年間テューバ吹いていました。」
先生 「じゃあいいじゃない。テューバは3年生一人だから必ず出られるから。」
私 「ハイ!!テューバ吹きます。」
これでテューバの道が確定しました。
私がテューバを吹き始めたのは小学4年生も終わる頃でした。
日進小学校の金管バンドに4年の3学期から入部し、全員コルネット(トランペットと同じ音域の楽器)を練習していました。
1か月後にパート分けがあり、当時ヤマハの講師だった元北翔大学教授菅原克弘先生に、テューバを吹いてみないかと勧められ始める事になりました。
当時は最も大きい金管楽器だという事が一番の魅力でした。
6年生の時には釧路ジュニアブラスバンドに参加。
これが私の初吹奏楽です。
当時北海道教育大学釧路分校の講師だった竹内俊一先生(現兵庫教育大教授)に吹奏楽を教わりました。
今思うと北海道ではかなり恵まれた環境で吹奏楽を経験出来ました。