前述したとおり、
高校3年間は全く勉強をしなかったので、
卒業するころには成績が回れ右をして3位まで上り詰めていた事に気が付いていませんでした。
こんな高校生が合格する大学はありません。
父からは最後まで諦めるなと、専門学校の受験も勧められ受験しました。
そのうちの一つに合格しましたが、
「今のお前で合格できる程度の学校なんて、
そんなところに行っても意味がない。」
と、言われ、勧めていながら行くなとは意味が解らなかったので家出しました。
4月の冷たい雨の中、傘も差さずに飛び出し、
興津の海岸で雨に打たれながらこれからの事を考えました。
父の言っていることが少し判りだしたので、
夜に釧路駅に移動し最後は夜中に家に帰りました。
翌朝母に泣かれました。
話を聞くと夜に駅に探しに行ったそうで、
その途中の拓銀ビル(現北陽ビル)前で止まっている救急車を見つけ、
私だと思い確認しにまで行ったそうです。
確かにその救急車を私も見ました。
私はその反対車線の歩道を歩いて駅に向かっていました。
心配をかけて悪いことをしたと心の底から思いました。
一生反省し続けます。
父とも話をしました。
「どこにも行くところがないから浪人するというのは、
進路選択したとは言えない。」と、言われ、また悩み考えました。
家を出てアルバイトをしながら何年かかけて大学に進学しようと決めた時、
釧路を離れ札幌の予備校で浪人することを許してもらえました。
札幌では勤勉でしたが、夏から秋にかけて予備校をサボる事も覚えてしまいました。
そうこうしていると春には大学生になりました。
この時の一連の経験が、ただの塾講師ではなく
「未来プランナー」という肩書で名乗るきっかけになりました。
※浪人時代のエピソードは濃いので別なトピックでまたお話しします。