中学生の時のテューバ生活(パート決め編)

釧路市立東中学校に入学。

ちょうど現在の幣舞中学校の校舎の工事が始まった時です。

吹奏楽部に入学。当時の顧問は大場和典先生。

程なくパート決めの日がやって来ました。

1年生は全員教室に集められ、1年間の活動内容を聞いた後希望パートを聞かれました。

トロンボーンかサックスを吹きたくて、サックスに手を上げたところでいったん休憩。

先生が寄ってきました。

先生 「今年は2,3年生で47人いるんだよ。」

私  「?」

先生 「コンクールは50人しか出られないから、1年生は3人しか出せないんだ。」

私  「?」

先生 「サックスで手を上げていたでしょ。サックスはオーバーしていて、1年生は出られないんだよね。」

私  「!」

先生 「どう?テューバ吹いてみないかい。何か吹ける楽器あるの?」

私  「2年間テューバ吹いていました。」

先生 「じゃあいいじゃない。テューバは3年生一人だから必ず出られるから。」

私  「ハイ!!テューバ吹きます。」

 

これでテューバの道が確定しました。

 

小学生の時のテューバ生活

私がテューバを吹き始めたのは小学4年生も終わる頃でした。

日進小学校の金管バンドに4年の3学期から入部し、全員コルネット(トランペットと同じ音域の楽器)を練習していました。

1か月後にパート分けがあり、当時ヤマハの講師だった元北翔大学教授菅原克弘先生に、テューバを吹いてみないかと勧められ始める事になりました。

当時は最も大きい金管楽器だという事が一番の魅力でした。

6年生の時には釧路ジュニアブラスバンドに参加。

これが私の初吹奏楽です。

当時北海道教育大学釧路分校の講師だった竹内俊一先生(現兵庫教育大教授)に吹奏楽を教わりました。

今思うと北海道ではかなり恵まれた環境で吹奏楽を経験出来ました。

月見和史自己紹介11(大学時代)

東京農業大学生物生産学科に入学して、
一次産業全般を学びました。

今ではどの教科書でも取り上げている環境問題という言葉は私が高校生の時に使われ始めました。
時はバブル、超インフレ好景気時代だったため、
誰もそのような事に見向きもしませんでした。

そのような世の中で、少しでも環境改善に役に立ちたいと思い水処理の勉強がしたいと思っていました。
しかし物理がものにならず一旦は諦めました。

進学先が農業系だったので雑草を勉強して環境改善の役に立ちたいと始めは植物資源の研究室に通っていましたが、
水産系の研究室で、水槽の水の循環ろ過の研究が出来ると知り、
3年次から水産系の研究室で勉強しました。

この時勉強したことは、後に商社勤務時代に役に立ち、
循環ろ過水槽の設計、施工、据え付けの仕事をすることが出来ました。

専門で勉強した事を仕事で生かせる機会などそうそうありません。

とても幸せな事でした。

大学時代はテューバを吹いていません。
一度聴衆に戻ってみようと思い、
アルバイトで貯めたお金は全部演奏会を聴く費用にし、
全国を飛び回っていました。

この時に海外まで視野に入れていればもっと面白い経験が出来たかもしれませんでした。

この回で学生生活までの内容が終了です。
社会人になってから釧路で塾を開くまでのエピソードについては別シリーズでお話しします。

月見和史自己紹介10(高校卒業~浪人)

前述したとおり、
高校3年間は全く勉強をしなかったので、
卒業するころには成績が回れ右をして3位まで上り詰めていた事に気が付いていませんでした。

こんな高校生が合格する大学はありません。

父からは最後まで諦めるなと、専門学校の受験も勧められ受験しました。
そのうちの一つに合格しましたが、
「今のお前で合格できる程度の学校なんて、
そんなところに行っても意味がない。」
と、言われ、勧めていながら行くなとは意味が解らなかったので家出しました。
4月の冷たい雨の中、傘も差さずに飛び出し、
興津の海岸で雨に打たれながらこれからの事を考えました。
父の言っていることが少し判りだしたので、
夜に釧路駅に移動し最後は夜中に家に帰りました。

翌朝母に泣かれました。
話を聞くと夜に駅に探しに行ったそうで、
その途中の拓銀ビル(現北陽ビル)前で止まっている救急車を見つけ、
私だと思い確認しにまで行ったそうです。

確かにその救急車を私も見ました。
私はその反対車線の歩道を歩いて駅に向かっていました。

心配をかけて悪いことをしたと心の底から思いました。
一生反省し続けます。

父とも話をしました。
「どこにも行くところがないから浪人するというのは、
進路選択したとは言えない。」と、言われ、また悩み考えました。

家を出てアルバイトをしながら何年かかけて大学に進学しようと決めた時、
釧路を離れ札幌の予備校で浪人することを許してもらえました。

札幌では勤勉でしたが、夏から秋にかけて予備校をサボる事も覚えてしまいました。

そうこうしていると春には大学生になりました。

 

この時の一連の経験が、ただの塾講師ではなく

「未来プランナー」という肩書で名乗るきっかけになりました。

※浪人時代のエピソードは濃いので別なトピックでまたお話しします。

月見和史自己紹介9(高校時代)

釧路湖陵高校に入学しました。

釧路の進学校です。

勉強は初日で挫折しました。

最初に挫折したのは得意教科の数学でした。
3次式の因数分解が出来ません\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「明日までに出来るようになればいいや。」などと思っていると、
クラスでは出来る生徒に休み時間中に教えてもらっているのです。

この勉強への姿勢の差がそのまま学力の差になりました。

4月の学力テストはそれはもう散々な結果でした。

各中学校から優秀な生徒が集まってきて、
その中で学年順位が付くのですから、
日頃から勉強する習慣がついていなければ、
授業には付いていけません。
私も劣等生を味わっています。

そういう意味では私の塾「月見学道」に通っている生徒達と、
何も変わりはないのです。

最も不得意な英語はクラスの担任だったこともあり厳しく、
家での勉強も少し出来ていたので、
1年次は最も評定が高くなりました。

家で勉強する事は学生にとって何よりも大切です。

このような様子でしたが器楽部(吹奏楽部)に入部しました。

この頃の湖陵高校は学生が指揮を振っていました。
小中学校でお世話になった先生達が素晴らしかったので、
高校で学んだものはありません。
詳しくは吹奏楽のシリーズでお話しします。

高2、高3と勉強についてお話しするべき内容がありません。
この後の私の高校生活は吹奏楽オンリーで、
それ以外のエピソードが全くありません。
勉強も全くしませんでした。

卒業から浪人するまでのエピソードを次号でお話しします。

月見和史自己紹介8(中3受験勉強)

吹奏学部を卒業した10月末からが受験勉強本番でした。

 

学校がある日は晩御飯までは自由時間。

19時から24時までノンストップで勉強。

日曜日や冬休みは9~12時、14~17時、19~24時、合計11時間。

受験日前々日まで続けました。

 

これは合格ラインから一度落ちた為自分で決めた事です。

これだけやってダメならあきらめもつくという、言い訳の為でもありました。

 

続けられたのは合格しなければならないという

「プライド」

でした。

 

若いが故の責任感だったのかもしれません。

 

でも、

勉強していた時の

「解らなかった」事が「解った」瞬間の、

その爽快感は何物にも代えられない得難いものがあり、

それが楽しかった記憶もあります。

 

「わからない」→「わかる」

この爽快感を皆さんにも味わってもらいたいです。

 

私と一緒に勉強しましょう。

 

次号から釧路湖陵高校時代です。

 

※途中で説明を省略している部分は後々取り上げていきますので少々お待ち下さい。

 

月見和史自己紹介7

吹奏楽部の部長。

中学生の部長「一人」が出来る事なんて大した事はありません。

 

吹奏楽コンクールで2年連続中学校A編成で釧路代表になった実績を引き継いだのは重い事でした。

 

先生が転勤のため代わり、

後輩たちをまとめ、

3年生にはリーダーシップを取る様に話し、

でも、自分は病院に通っている。

 

環境が変わると大人でも大変な事を

「絶対やり遂げなければならない。」

と、思い込み取り組んでいました。

 

勉強を放って・・・
夏休み中ずっと・・・

成績は落ちました。

 

当然ですよね。

続きは次号。

月見和史自己紹介6(入院中)

退院後から卒業式直前のバスケットボール大会まで、体育は禁止でした。

たぶんこの成長期に運動が出来なかったから、身長が止まったのだと思います(T_T)

吹奏楽部では部長でしたが、2年生の11月に就任して直ぐ入院。

中学校もちょうど新築中で、完成した部分へと何度も教室を引っ越ししていた時に、
窓から古い市立病院から新しい建物へ引っ越ししているのを眺めていた事もあり、
真新しいその病院に自分が入院するなんて思ってもいませんでした。

 

 

釧路市立病院の病室の窓から友達が下校している姿を寂しく見ていると、誰かが必ず遊びに来てくれました。

私の母校東中学校(現幣舞中学校)とは隣同士です。

思い返すと、男女問わずクラスの友達も部活の仲間も全員来てくれたんです。

お見舞いに。
今更ながら幸せな中学校生活を送れたんだなと、ブログを書きながら実感しているところです(^o^)

 

 

ここで吹奏楽部の部長だった事がその後の高校受験当日まで大きく影響してきます。

 

 

次回中学時代最終回です。

 

月見和史自己紹介5(中学入学~入院)

中学時代は色々ありました。

小学生から吹いていたテューバは続けていました。

 

その様子を見た担任の先生は

「音大に進むなら5教科の勉強よりも、楽器の専門の先生に習う事。」を

勧めて下さいました。

 

楽器演奏は趣味だと考えていたので、
もしこの時音楽を選んでいたら人生が全然違ったものになっていたでしょう。

 

私の人生の岐路の一つでした。

吹奏楽の事については別シリーズでお話しします。

2年生の11月、当時完成したばかりの釧路市立病院に入院しました。

 

冬休み直前までの約1カ月と、3年生になる春休み中の2週間です。

 

学校を休んでいた期間の授業のノートは級友が順番に全員で取ってくれたのが一番印象に残っています。今でもありがたい事だったと感謝しています。

遅れた勉強は学校の先生、の先生がサポートして下さいました。

 

この時の経験が学習塾をやってみようと思った大きな要因です。

 

私の場合は病気で休んだために勉強が遅れましたが、

きちんと学校に通っていても遅れる友達もいます。

 

遅れている者同志、一緒に勉強して成績を上げていった記憶があります。
縁があって始めた月見学道ですが、

この中学生の時の経験と記憶から、

「生徒さんと、保護者様と一緒に、成績を上げていきたい。」

と、強く思うようになりました。

 

中学時代はもう少し続きます。

 

月見和史自己紹介4(小学生)

8歳の時に釧路に戻り、
日進小学校(現釧路小学校)に通いました。

ちょうど開校100周年の年で、
記念の年に生徒でいられたのは幸運でした。

この100周年を記念して金管バンドが発足し、
4年生の3学期からテューバを吹き始めました。

きっかけは釧路の港まつりです。

毎年8月に行われるこの祭りの最終日に音楽大パレードがあります。

釧路の夏はジリ(霧雨の激しい感じのもの)がひどく、鬱陶しいものです。

港まつりの土曜日に行われる花火大会が中止になることはしばしばありました。

 

しかし、日曜日の昼のこのパレードの時間はピーカンになることが多く、
そんな天気の中、駅前から中心街の北大通の6車線もある道路全てを使った行進は圧巻です。

 

当時の小、中学校のほとんどと、高校全ての吹奏楽部40校以上が参加していました。

カンカン照りの太陽を反射して輝くラッパはキラキラしていて綺麗でした。

道路脇からの声援を浴びている姿は、それは格好良く観え、

自分も演奏者側に行きたいと思ったことを今でも覚えています。

6年生になると学校の金管バンドだけでなく、

釧路の小学生が集まって結成した釧路ジュニアブラスバンドにも参加しました。

 

当時釧路の教育大学に赴任していた竹内俊一先生(現兵庫教育大学教授)に教えていただいたことは、その後のテューバ人生を考えると貴重な体験でした。

次回は中学時代です。